■ 149 旧額田町雨山、オカタ送りルート/岡崎市 ■

旧額田町の大代・雨山地区には「オカタ送り」という子ども達による冬の行事が残っています。(少なくとも2016までは)
3体のわら人形をお寺からオカタ場と呼ぶ村はずれまでカネ・太鼓で運び、一拝して振り返らず帰ってくるという年中行事です。
大代地区の「オカタ送り」は寺(正泉寺)から山中のオカタ場(下地図)まで歩いたことがありますが、雨山地区のオカタ送りは菩提寺から出発することはわかっていますが正確なオカタ場(雨山ダム南岸?)は不明です。
これを捜そうとやってきたのですが、犬が歩きたくないと拒否、しかたなく車で回る事になってしまいました。
額田町の時代にもこの地区は子どもが少なくて、地域の大雨川小学校は児童10数人の複式学級でした。
岡崎市との合併後の2010年に約130年の歴史を終えて閉校、今大雨地区の子どもは何人いるのでしょう?(右下:大雨川小学校)
大雨川小学校
菩提寺からのオカタ送りは集落を東へ抜け、雨山ダムを回って湖岸の山裾のオカタ場へ依代(よりしろ)である人形を置いてくる3kmの道です。
そのオカタ場の場所には何かあるだろうと思っていたのですが、何の痕跡もありませんでした。
ダム工事でルートは変わっているにしろ、ほんとうにオカタ場はここ?
文献に「豊川市(旧宝飯郡)一宮町と岡崎市(旧額田)河原町に至る三ツ叉のオカタバ」という記述があるので、本来の場所はもっと東の山中、或いはダム湖だったのかもしれないと想像するのみ。
江戸末期の雨山六人衆の墓や1556年の雨山合戦の石碑などを見てきましたが、雨山ダム近くの菅沼定村の供養塔は見逃してしまいました。(やはり一周歩いて回らないといけません)
・岡崎市のホームページで「オカタ送り」を検索するといくつかPDF文書が見られます。
雨山この地図は,国土地理院長の承認を得て,同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平30情復、第192号)
この地図を第三者がさらに複製する場合には,国土地理院の長の承認を得ることが必要です。
熱田神社()に車を置きました。
神社の向い側が地蔵堂で、堂の脇に雨山六人衆の墓があります。(No1)
No2菩提寺に歩こうとしたものの老犬が拒否、で以後は車で移動しては周辺を歩きます。

No3にかなり古そうな石仏・石碑群、No4の民家脇には堂の中を張り直してきれいになった板張りに石仏・石塔が祭られていました。
そして雨山ダムが見える右側No5に、1556年の雨山合戦の大きな碑が立っています。
雨山ダム(No6)は結構広い駐車場とトイレがあり、 その直前、左の山側(印 )に菅沼定村の供養塔があったのですが見逃してしまいました。

ダム湖周辺は木製デッキ(星空広場との命名もある)が2ヵ所設けられ、湖岸の公園は春には花見ができそう。
ダムを回ってNo7のオカタ場らしき場所に来たのですが、何も痕跡がありません。
ダム堰堤のNo8まで来たところ、鎖で閉鎖され車は通れませんので来た道で引き返します。
☆雨山ダム/三和湖の場所はここ⇒MAPION
追記:2022.12ダム湖北の雨山山登山記up
熱田神社 左画:熱田神社。(
右下:傾いた境内の大スギは圧巻。
スギ

地蔵堂 No1 雨山地蔵堂。

左奥に雨山六人衆の墓。
案内(右下)は拡大可雨山六人衆
墓 雨山六人衆の墓と大乗妙典一千部供養塔。
墓(下)には善男六人の名前。
No2 菩提寺。(無住)

読経・お祓い後、ここから雨山オカタ送りが出発する。
下は寺域に残る荒れた石碑群。
南無西国巡礼観世音 No3にあった石仏・石碑。

石碑には「南無西国巡礼観世音」とある。

袋 No4 民家の間にあった堂。
中はきれいに張り替えてあった。
今もていねいにお世話されてる様子。
堂内
No5 雨山合戦の碑。

1556年雨山領主阿知和氏と今川方が戦った場所。
野田城主菅沼定村はここで戦死したという。
(野田城は後の信玄狙撃の伝説の地…映画「影武者」の舞台でもある)

ダム No6 雨山ダム(三和湖)堰堤。

階段で下へも降りられます。
下画はダムから見る雨山風景。
下流
おかた場 No7 今のオカタ場。

なにもない。
この斜面に登って探索しててみたものの、伐採された木が倒れているばかり。

おかた場 左:ダム湖に残る紅葉。

下:堰堤の南端No8は鎖で閉鎖されているので徒歩でしか渡れません。
紅葉

2018.12.12 UP ■二代目に戻る■
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