■ 184 家康関連の寺社を巡る/岡崎市 ■

NHK大河ドラマ「どうする家康」の影響で人が多い今のうち(舞台は浜松に移る)に,せっかくなので家康関連の寺社を歩きます。
とはいえ遠い所は無視して東岡崎駅周辺の歩ける範囲を,知られざる場所も含めて地元民の利点である路地コース(特に北部)で巡ります。
どこを一番にしてもよいのですが,東岡崎に近い龍海院から時計回りに周回し,最後を六所神社で締めとしました。
(実際には一度で歩いた訳ではなく,3回分ほどのGPSログを合体させたのですが)
観光案内やネットに出るような場所は平日でもけっこう人がいます・・・これは近頃なかったことです。

改めて関連する寺社を調べると,清康・広忠・家康が市外から勧請した寺社が多く,また家康に従って東方へ移っていった寺も多い。
そこへ来たのが反徳川を旗印にした田中吉政というわけで,関東の新天地はもちろん大変ですが,地元に残って城下町の大改革に耐えた側にも苦労は多かった,と想像できます。(転出組と残留組で”どうする家康”状態がそこら中で起きたと思われます)
それに加えて江戸から明治の大変革,そしてとどめに1945年の空襲ということで,寺社には受難の歴史そのものです。
家康map
この地図は,国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製・追記したものである。
東岡崎駅南口から西200mにNo1龍海院があります。
龍海院から北上,殿橋の下をくぐって乙川左岸から潜水橋を渡り,岡崎城へ。
個人的には北側から見るのが一番と思う。(右画)

お城北側を回って坂谷橋からNo2新田白山神社。
伊賀川沿いに国道1号をくぐって図書館の北が家康祖父の清康夫妻と父・広忠の墓があるNo3大林寺。

城門通りを北上すると化け猫像のあるNo4地蔵院が左側,レトロ感いっぱいのアーケード(右画)を通ってNo5松應寺横丁を一周。
(私もいくつ店があるか不明)

ここから東へ向かい,ヤマトタケル伝説の甲山(カブトヤマ)の中腹にあるNo6甲山寺護摩堂でひとやすみ。(市街がよく見えます)
わかりにくい路地を抜けて虎石のあるNo7誓願寺を通り,さらに迷いそうな西口からNo8隨念寺へ到着。
隨念寺からは南下してNo9善立寺に寄り道し,最後のNo10六所神社まで,家康関連の10ヶ所でした。

岡崎中心部の観光というなら,話題の「大河ドラマ館」と八丁味噌の二つの工場を加えることで一日コースとなりそうです。(なお北部のルート…地蔵院〜隨念寺は地元民でも迷うこと必須なのであしからず)

☆岡崎城の場所はこちら⇒mapion
 
龍海院 No1満珠山是字寺龍海院(曹洞宗)。
祖父・清康の代(1530)に創建。その際の「是の字」のいわれは有名です
家康の関東転封に従い川越に別院を建立,ここは田中吉政により廃却されるも1601年に再興。
背後の山の北面は墓地で埋め尽くされ,その中を捜して清康・広忠後室真喜・酒井家の墓を見つけました。

境内を探しても解説板が見当たらない。(寺の意向?)

酒井家菩提寺として移転した龍海院は,現在前橋市に広大な境内を有します。
白山 No2家康が1566年勧請した新田白山神社。
(左画は2020のもの…今は民家で本殿が見通せません)

右:家康もくぐったという茅の輪くぐりの穴あき石(自然石に鳥居が浮き彫り)と樹齢600年を超える楠の巨樹。


龍海院 No3拾玉山大林寺(浄土宗西山深草派)

最初に岡崎城のあった明大寺から祖父・清康によってここに移されたという。
広大な寺領は家康転封後の田中吉政に削られ1668再建の本堂は空襲で焼失,左画は1971再建のRC製。
下:清康夫妻・広忠の墓所。
龍海院 No4九華山地蔵院(浄土宗)。
家康の正室・築山御前(瀬名姫)を弔うために尼僧が建てたという。(空襲で焼失と思われます)
今は真福寺町の西居院の管理下にあるようです。

軒下に岡崎化け猫の石像があります。(下)化け猫
初め康生の街角にあったものが地権者の反対で撤去された…もったいない話です。


松應寺 No5能見山松應寺(浄土宗)。
家康が父・広忠を弔うため1560年創建。

下:広忠公廟所。(ここ以外は空襲で焼失)
門前の松應寺横丁が発展するとよいのですが。
護摩堂 No6長輝山甲山寺(天台宗)の本堂:通称護摩堂。
祖父の清康が岡崎城の鬼門の守りとして安祥城の裏鬼門から呼び寄せたという。

この上部にある八幡宮(下)は同じく鬼門の守りとして1562年家康によって岡崎城内から移転した。
明治の神仏分離令で八幡宮とは分離,寺領は没収。

その後の岡崎空襲で八幡宮と護摩堂以外はすべて灰塵に帰した。
 
甲山寺については後述します。
No7諏訪山誓願寺(浄土宗西山深草派)。
家康が官位勅許にあたって尽力を得た京都誓願寺の住職のために1566建立。
空襲により1945全焼失。
幼少時に家康が弓の練習をした際に腰かけたという虎石が残っている。(下画)

No8佛現山善徳院隨念寺。
家康が祖父・清康と大叔母・久子(母替わり)のため1562創建。墓所は寺の奥で直接見られません。
(下画の左奥が墓所と思われる)
市中心部で空襲を免れた寺は本山と善立寺くらい。

2011建立の珍しい三重塔がある。(右画奥)
No9大光山善立寺(日蓮宗)。
清康が安祥城から岡崎に移った際に共に移転した寺で,家康が乙川に来た際にはここで昼食を取って休んだという伝承の地でもある。
中庭に手植えの梅があるというが見られません。

家康の関東転封で浅草に移転しました。(今は足立区)
山門(左)は岡崎城二の丸から移築されたもの。
境内は松が美しい。(下画)
松
No10松平家の産土神である六所神社。
観光案内には必ず登場しますが,今の建物は徳川家光の時代のものです。

朱塗りの拝殿が目を惹きます。(下画)
国重文や岡崎市有形民俗文化財多数。六所神社
おまけ:No6甲山寺と甲山八幡宮の歴史(岡崎市史研究第26号:2005刊より抜粋)
三河の山奥から平地へと,扇状地のように広がった松平一族の覇権争いに勝った祖父・清康が,岡崎城の鬼門守護として安祥城から呼び寄せた六坊を始まりとします。
さらに父・広忠が家康の誕生を祝して岡崎南部の法性寺から呼んだ六坊と併せ一山十二坊の広大な寺領を有した甲山寺です。
西三河では大樹寺・滝山寺・真福寺につぐ四番目の寺領で,東西224間(≒400m),南北211間(≒380m)という記述があります。
幾度もの変遷を経た江戸時代後期の全景図が,岡崎市史七巻(1929)に載っています。
この絵図を元に航空写真に大体で記入したものが右画です。
東は今の市民会館付近,西は護摩堂から200mくらいまでということになります。寺の墓地域は標高64.7mの山頂北側まで広がっていますので,南北も右画いっぱいの範囲なのは間違いないでしょう。
現在残っている甲山寺はもと極楽坊の場所,焼け落ちた惣門の西にある薬師寺はもとの薬師堂が明治になって独立し,戦後に再建して別寺となったもの。
現在の護摩堂は広忠の代1544,家康の代1603,そして綱吉の代1703と三代目の建築となります。(それでも既に300年以上)
前記した甲山寺全景図(岡崎の絵師石川貫河堂:1781-1859)を下に載せておきます。
かつて護摩堂のふもとの街で暮らし,早朝の甲山(カブトヤマ)でカナブン・カブトムシを捕り,秋祭りのびっしり並ぶ露店を横目に奉納花火を見た記憶は消えないけれど,子どもの数が減った今は静かな里山となっています。全景

2023.3.3 UP ■三代目に戻る■
inserted by FC2 system