■ 141 姫ヶ城址・山中城址/岡崎市 ■

雨上がりで登城路が少々不安ながら、近いところで岡崎市東部の二つの城址を巡ってきました。
姫ヶ城址は保母松平氏の城ですが、1000年前の伝説の地でもあります。
胎蔵寺から約60m登る山頂は2段になった曲輪が残り、西に延びる東名高速〜岡崎の市街地がよく見えます。
いっぽうの山中城址は、城マニアには三島市の北条の城のことなのでしょうが、これは家康以前の松平一族の城で、こっちも見ごたえ充分です。
10年以上前に一度来たときはいい加減な歩き方だったので記憶が薄いのですが、あらためて探訪すると、東西400mくらいに渡る土塁の規模に驚き、いくつも重なる曲輪や大きな堀切など見所がいっぱい。
前回は見られなかった北に延びる曲輪も整備され、要所に案内板も立っており、城の構造に詳しくなくてもわかり易くて楽しめました。
この大きさなら、一時は松平宗家(家康の祖父・清康の代)の本拠であったという説にもうなずけるものがあります。
姫ヶ城この地図は,国土地理院長の承認を得て,同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平29情復、第241号)
この地図を第三者がさらに複製する場合には,国土地理院の長の承認を得ることが必要です。
まずは姫ヶ城址へ。

力寿姫と大江定基の悲恋に関連してこの地方にいくつか残っている伝承地のひとつであり、力寿姫の亡骸を葬った山(丘)が後の姫ヶ城となり、定基が建てた弔いの庵が胎蔵寺となったということです。

胎蔵寺の広い駐車場に車を停め、境内(No1)から竹林を通って姫ヶ城址遊歩道(No2)を登っていきます。
足が疲れる頃に出た曲輪には年に一度祭礼の行われる稲荷社(No3)が建っており、さらに奥が一段高くなった曲輪で、西の岡崎方面に抜群の展望の地となっています。
ここなら街道を行く人もよく見えたことでしょう。
(ちょうど正面に東名高速が見えています:下画像)

帰路はまっすぐ南下する尾根(No4)をたどって寺の背後に出ました。

力寿と定基の話は言い伝え程度に思っていたら、大江定基はかなり具体的な記録上の人物で、官吏を辞めて出家し、比叡山で修行、後に宋に渡って皇帝から円通大師の号をもらったという高僧です。
調べていると、古典には詩歌が残されているし、故宮博物館には円通大師が描かれている西園雅集があるというので、なかなかの人物だったようです。(知らぬは私だけ)
悲恋の力寿姫についてはいくつか異説もあるようですが、旧小坂井町の赤坂・長福寺には力寿姫の墓があります。☆姫ヶ城址の場所はこちら⇒MAPION
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この地図は,国土地理院長の承認を得て,同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平29情復、第241号)
この地図を第三者がさらに複製する場合には,国土地理院の長の承認を得ることが必要です。
全景羽栗病院前(No1)から登城口が見えますが、車の止め場所がないので、二つの登城口を過ぎた先まで行きます。(
駐車地からぐるっと歩いて戻り、No2羽栗口は通過して、最初にNo3の歌碑(たぶん)と石像を見に行きました。
残念ながら歌碑は誰のものか不明、そして上部の岩場には役行者像、ただ、よく見るには崖登りが必要です。

舞木登城口の猪避け柵を開け、姫ヶ城そっくりの竹林を登って行きますが、登城路はかなり長いです。
300m程登るとNo5付近から次々と曲輪が現れました。(主郭に設置の縄張図参照・・・右:拡大可)
四番目の東郭の下には堀切と馬出し、さらに北に派生する曲輪(No9・10)にも行けるのですが、主郭を見て回っているうちに行くのを忘れてしまった。
主郭と二の曲輪一帯には、城址碑・木花咲耶姫の祠・桜精香の碑・謎の石積み塔などが点在します。
前回来た時に較べるとかなり木が伐採され、全体が見やすくなっていました。

三河の山城はいくつか見てますが、当初の西郷氏の時代から考えればただならぬ広さです。
松平清康、或いは後の今川氏以後に広げて改修したものと考えられているようです。(案内板より)
さらに西へ進むと、3段になった腰曲輪の先に大きな堀切があって遺構の区切りとなっています。(No7)
ここから南へ下り、墓地を抜けて羽栗登城口へ出ました。
そういえば、舞木口にも墓地がありましたから、山中城址はどちらから登っても最初に墓地から始まります。
☆山中城址の場所はこちら⇒MAPION
歌碑 左:No3の歌碑と石像(画像上端)。
碑文がよくわからない。
「埋火に吾が晩年の・・・?」
裏に昭和51年城山会とありますが。

右:その上部の岩場にある役行者像。
今回は、がんばって崖を登って撮ってきました。
01ePort.JPG No4 舞木登城口。

ふもとはぐるりと猪避け柵が取り巻いて、入口は扉になっています。
(近頃は水田周囲によく見る金属柵)

04benten.JPG 左:竹林の中を登る。
下:最初の曲輪(No5)を上部から見る。
東郭前の堀切(左画)と馬出し(下画)。
出会い
出会い 縄張り左:No6主郭、右端に城址碑が見える。

右:その城址碑。
下部に「子爵大久保忠言題」とあります。
(拡大)
 徳川譜代の子孫か?
切通し 左:二の曲輪にあった石積み。
さほど古いと思えないのですが、どういうモノなのか不明。
下:木花咲耶姫祠と案内板(拡大可)。
木花咲耶姫
左:何段にもなる腰曲輪のひとつ。
右:No7 最大の堀切。(城址の終わり)
No8 墓地。

羽栗口に出る直前です。
この時期の千両が見られました。(下)
後日、北に延びる二つの曲輪群を見に来ましたが、予想以上に大きなものです。

特に北東の曲輪(左画)は、二段になって小さな山城ひとつ分はありそうな広さ。
中心に立つ太いホオノキ(右)が朴葉を周辺に降り積もらせていました。
北の曲輪は最近木を切って整備されたと思われます。

2017.11.24 UP ■二代目に戻る■
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