2021年3月から設楽町の10ヵ所の城の「御城印」なるものが売られています。 申し訳ないけれど私が知ってるのは10山城のうち田峯城・岩古谷城・田内城までで,今回はもともと長江神社を目的に来たのですが,たまたま長江城址の案内を見たので,神社のついでに訪城したというわけです。 「長江城址近道約350m」との立札を見なければ,たぶん登らなかったでしょう。 それなら急登でも15分くらいと判断したけれど,こういう予測はだいたいハズレるのが普通です。 350mでたどり着いたのは二の曲輪で,本曲輪はそこからつづら折りの登りでさらに標高差60mくらいありました。 この本曲輪から東へ下る「堀切・大沢寺跡・P」という案内柱があったのですが,かなり急で,行ったとしても登り返す気力に不安,あきらめて来た道を二の曲輪へと戻りました。 しかし帰ってから調べると,そちらへ下れば切通しを経て石仏のあるサカモリザ峠や大沢寺跡の石積みが見られたようで,せっかく山頂に登ったのに残念。 それにしても,城址と言いながら遺構らしいものがほとんど見られない。 現地にあった縄張図(右画)には二の曲輪・三の曲輪・本曲輪とありますが,現実は単なる緩斜面と山頂平坦地です。 大手口とは言っても単なる切通しにすぎないし,城址というからそうなんだろうと納得するしかない。 ただ,1908年(明治41)大日本帝國陸地測量部測図の地図(下:Stanford Digital Repository)ではこの長江城のすぐ南を街道が通っているので,この附近にも人の暮らしがあったのだろうと考えられます。 それにしてもこの古い地図が誰でも見られるというのはすばらしい。スタンフォード大に感謝。 でも何故日本の地理院ではないのだ?との疑問もわく。 (国立国会図書館に同様のものがあるようですが閲覧がむつかしい) |
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■この地図は,国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製・追記したものである。
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前記したように「長江城址近道約350m」の案内(右画)のある道路わきに駐車して登り始めました。(P1)
崩れかけた丸太階段を登って着いたのはNo1「二の曲輪」。 もっと気軽に考えていたので,そこから何度も折り返して登る本曲輪(No2)まではなかなか大変。 帰路は本来の登城路(旧街道?)と思われるNo3「三の曲輪」へ降り,大手口を経てNo4林道(町道12号氏神松ヶ根線)に出ます。 ここには「大井戸(おいど)の祠」という碑が建っているのですが,もはや痕跡もない有様。 地形図にはすぐ前に家のマークがありますが,すでに倒壊して屋根しか見えない。 その先P2に本来の長江城址駐車場がありましたが,ここは簡単にわかりませんね。 町道を下ってNo5で県道427号に出ると,あとは駐車地まで戻るのみです。 前回この地区を訪れたのは7年前で,棚田百選に入っている「長江の棚田」が目的でした。 すでにそのとき消滅寸前だった棚田がどうなったか確認しようと捜すのですが,なんと場所がわからない。 設楽ダム関連の道路工事がそこらじゅうで進行していて,水没地の迂回路となる県道427号は拡幅されて今なお工事中です。 長江城址に時間を取られたこともあって,棚田の現状確認はあきらめて帰りました。 これで,また涼しくなってから長江城址と棚田を再訪するという,またまた新たな目的を抱え込んでしまうのでした。 なお,長江と永江の二つ表記がありますが,室町時代の地頭永江氏が開発した土地ということでどちらも間違いではない。(ここでは長江にします) 2015年に棚田や長江神社,近くの旧伊那街道を訪れています→No111 長江の棚田 ☆長江城址の場所はこちら⇒ |
左:P1から登る。(苦労したであろう丸太階段) 下:No1 二の曲輪・・・この碑のほかは何もない。 |
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左:No2 本曲輪の碑と縄張図。 下:遺物としてはこの二つの祠のみと言っていい。 |
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左:No3 三の曲輪。(単なる緩斜面) 下:大手口・・・旧道の掘割。 |
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左:No4 町道からの登り口 下:左端に「大井戸の祠」・・・廃屋があわれ。 |
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今回目指してきたのは,古来より牛頭天皇を祀ってきたという長江神社。 左:長江神社参道の役行者石像。 下:巨木に囲まれる長江神社奥の院。(左下の祠) |