NHK大河ドラマ「どうする家康」の前半山場,築山殿(瀬名姫)の最期が放送されました。(2023.7.2) かつて一般的だった信長の命令説から,最近は家康の自主判断説が広まっていましたが,今回は「築山殿の世界戦略説」という,新しい見方を示したことは画期的ともいえます。(最新のフェミニズム事情を考慮した?) 有名な五徳(徳姫)の「十二か条の訴状」も,築山殿の指示で書かせた信長にたいする偽装(五徳の身の安全を図るため)という立場をとっており,なかなか斬新な視点です。 築山殿と長男信康の史跡は最期の地,浜松に多いとはいえ岡崎もあちこちにあるので「家康関連の寺社・続」として歩いてみました。 前回の家康巡り(No184)で歩いたコースよりかなり東寄りを一周することになります。 |
|
■この地図は,国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製・追記したものである。 |
市役所の 東にある「せきれいホール」駐車場(P)に止めさせてもらいます。ここは各種催し物のほか1913建築のレトロな「旧額田郡公会堂」(右画)があります。 ただ,駐車場はネットで催しのない空き日を確認しておいたほうがよいでしょう。 ここから西100mほどの祐傳寺(No1)に築山御前首塚があります。 佐鳴湖での死後最初に埋葬されたのがここで,後に八柱神社(No3)に改葬されたと伝わっています。 次に祐傳寺南東の若宮八幡宮の信康首塚(No2)へ。 何故二ヵ所とも首塚なのかというと,信長のもとで首実検ののちに岡崎に戻されたからなのですが,当時は岡崎のはずれもいいところ,寂しい埋葬地だったのでしょう。 ここから国道一号線を渡って八柱神社(No3)へ。 一号線を渡ると道は登りになり,神社の森が見えてきました。(右画:正面の邪魔な四階建は学習塾) 八柱神社から北西へ向かうと大泉寺(No4)があります。 生母「於大の方」が家康誕生の翌年創建したという寺ですから寄らない訳にはいきません。 そして最後は築山稲荷のある総持尼寺(No5)。 ただ,考えてみるとこの場所と築山殿は関係ないですね。 ☆せきれいホールの場所はこちら⇒ なお,築山殿位牌のある地蔵院は No184で訪れています。 |
No1根石山祐傳寺(浄土真宗高田派)。 左画:狭い境内ですが山門はすばらしい。(1923建:未確認) これは空襲で燃えなかったらしい。 築山御前の首塚は門柱のある正面入ってすぐ左。 ささやかな石塔です。 この日花束を供えて参拝した人がいるらしい。 (前日は「どうする家康」での築山殿ラストシーン) |
|
No2若宮八幡宮は巨樹が多く,森と呼んでもいい境内。 左画:信康公の幟がたくさん奉納される首塚に,祐傳寺と同じ花束が供えられていた。 右画:首塚のある墓所には直接入れませんが石塔が建っています。 |
|
左:No3八柱神社の南参道口。 はじめてこちらから登りましたが,拝殿まで150mはあります。 右下:築山殿首塚は神社西端の社叢にあります。 (左画にある案内に従った方がじつは近道) ここにも同一人物と思われる花束。 |
|
No4東林山大泉寺(曹洞宗1543創建)。 この石段を見ると古そうですが,寺は空襲で燃えています。 以前壊れかけた竹垣に囲まれていた墓所は改装中でした。 大河ドラマの影響力おそるべし。 |
|
左:No5 深恩院瑞生山総持尼寺(曹洞宗) 背後の一段高い場所にあるのが築山稲荷大明神。 もともと篭田町付近にあったのですが,大正末に現在の場所に移転させたという話です。(そのおかげで空襲にあっていない) ただ築山稲荷は建て直された感じ。 施錠されてますが,隙間からカメラで撮ると祭壇は白狐でいっぱい。(下) |
|
★築山殿と築山稲荷大明神(吒枳尼尊天)について 1934刊の参河國名所図絵・下巻(注1)では"築山殿旧跡"(P343)の項で 「築山殿と申は無頼の悪質,其上婬乱にして嫉妬深き婦人故,大神君も大にもてあまし玉い,浜松へ御引移りの後は偏に寡婦の如き故, 別して恨み奉りて岡崎を出奔せしこと度々なり」 とクソミソにけなしてますが,こういう悪評は江戸時代に幕府側が意図的に流布させたイメージのようです。 とはいえ,今回の大河ドラマの「交易をもとに各地と連携し,反信長連合による和平の世を目指す」というのは 戦国時代という背景を抜きにしてもちと理念的すぎる・・・というか,女の発想ならこういうのありかも?と男の考えそうな安易なジェンダー浅読みと言えなくもない。 自民党にオジサン好みの杉田某や高市*がいることで面目が立つ(と思っている)自民中枢と同じ。(ちょっと違うか) いずれ関ヶ原で二大勢力がぶつかることの伏線として描かれたのかどうか?これも注目しておきたい。 ところで前記の"築山殿旧跡"には「駿河御前は築山と云う所に別に居を営み住みし玉うに築山殿とは申けり,其地総持尼寺の西隣,今は城内と也て連尺口殿町の左の馬場東の端」とあります。 総持尼寺はそもそも築山稲荷の護持のために建てられた寺で,その築山稲荷は京の都に現れた妖怪(白狐)を退治したのち祟りを恐れて全国66箇所から集めた土で築いた盛山(築山)に建てたと伝わる神社です。(1214創建) 場所は籠田惣門の南,現在の康生郵便局付近と言われています。(郵便局を作るために追い出したらしい…いいのか!:1927) 注1. 背表紙は"参河國名所図絵"ですが(ただし旧字),奥付は"三河国名所図絵"となっています。原本は1851頃で未完成。 |