No187はしもとみお展
で予告した 「おのうづ・めのうづ」です。 「おのうづ・めのうづ」は男(雄)能頭・女(雌)能頭と書くようですが,現地ではひらがなで彫られているのでここでもそうします。(現在の地名としては丸山町能頭・岡町女能頭尻の二つが残っている) 矢作川支流の乙川中流域で渓谷美を伝える場所でしたが,最近はすっかり無名となっている様子。(注1) けれども手近な所(図書館)で見られる最古の資料では1924年発行の三河国額田郡誌の龍宮の項に「男龍頭」「女龍頭」の名で出てきます(右画:onmouse拡大)。 今回は,改めて乙川右岸のNo1村上古墳〜「おのうづ」〜神明宮古墳一帯を歩き,また左岸側の「めのうづ」から東の乙姫橋!(人道橋)までをじっくり歩いてみました。 ここは乙川がS字に折れ曲がって深い淵になっており,たくさんの民話・伝説が残っています。 落とした斧を取りに龍宮に行った話,衣文の渭信寺の弟子が龍王になった話,宗徳寺の法事にお椀を龍宮から借りる話,日照りの雨乞いに袈裟を流す話,などいくつも出てきました。 この一帯は古くからの定住地で6世紀〜7世紀ごろの丸山古墳群,経ヶ峰古墳群など古代遺跡が多い地です。私もはるか50年以上前に小学校の遠足か何かで来たことはあるのですが「おのうづ・めのうづ」は覚えがありません。 1967年架橋の乙姫橋は老朽化で通行止めです。(かつて一度は渡ったような気がします) 2014年に再建されためのうづ社では,見事な龍神の「御朱印」が頂けるほか,週1回の空手道場「拓空塾」と月1回のヨガ講座が開かれているようです。(訪問時はタイミング悪くお留守でしたが:注2) 注1.2007年選定の「岡崎観光きらり百選」からは外されている。 ただし,ゆかりのまち神奈川県茅ケ崎市による岡崎市の自然紹介には何故か「雄能頭・雌能頭」が載っている。 注2.No183秦梨鏡岩 で訪問した鏡山神社と瑞宝泉三六堂はめのうづ社と同じ系列のようです。 さらに,西尾市を流れる矢作古川にも龍宮があり,後日そちらの竜宮もUPの予定。 ・「おのうず」の場所はこちら⇒ |
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■この地図は,国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製・追記したものである。 |
まずはNo1村上古墳の草地(P)に車を止めて歩きます。 No2「通り抜けできません」の看板横(右画)から入りますが,乙姫橋への道ははNo3で完全に封鎖されていました。(下) 予想はしていたので東名高速をくぐってNo5「おのうづ」へ。 途中のNo4付近は丸山城址で土塁・堀切らしきものが見られます。(左) No7/8神明宮古墳は玄室も存在する円墳。 No9の鳥居を抜けて村上古墳に戻りました。 No10「めのうづ」は一旦左岸へ回らないと行けません。 施設駐車場(P)に車を止め,北側の祠と岸辺への参道を降りて淵に参拝。 乙姫橋へはNo11の東名高速下(右)から川に向かう。 かつてはここが名勝「龍宮渓谷」と呼ばれた場所かと,対岸の岩場を眺めて帰りました。 |
左:No1村上古墳。 広い草地の中に円墳といくつかの居住跡の発掘遺跡が見られます。 下:現地の案内板。 |
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左:No3で東名高速大平川橋をくぐります。 下:反対側から橋を透かして向こうの乙姫橋がかろうじて見えます。 |
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左:No5「おのうず」の趣ある境内。 祠と龍宮王・乙姫の浮彫石碑,石灯籠。 右:下に降りると弁財天の標柱。 深そうな淵はいかにも龍宮伝説のうまれそうな雰囲気。 |
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左:No7神明宮1号墳。 解説板に6世紀〜7世紀の円墳とある。 下:その玄室。 |
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左:No6神明宮。 古より伊勢と縁深く,斎宮が訪れた…と社記にあります。 下:一の鳥居の真下に三角の進入禁止? 額束の裏に乗ってる石が落ちてくるらしい。 |
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左:No10「めのうづ」の鳥居,祠,石灯籠。 右の建物がめのうず社兼ヨガと拳法の道場。 右端の鳥居から淵へ降りられます。(右画) 下:渭信寺や諏訪湖にも通じるという龍宮の淵(?)は神秘的。 「風流家、酒を携えてここに遊び、三絃太鼓を鳴らし歌うて之を弄する」(岡崎市史)の地。 |
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左:伸びた樹木に埋もれてしまいそうな今の乙姫橋。(向う岸が地図のNo3) 通行禁止ですが自己責任で登ってみると,目的の銘板を目にすることが出来ました。(下) 昭和42年3月建設とありますが,これは架け替え橋らしい。 |
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左:1982年選定の観光文化百選で「乙川龍宮渓谷」と呼ばれた頃の風景は今も変わっていない。 下:茅ケ崎市(大岡越前守つながり)の岡崎市紹介文にある乙川の項。 |