今まで国土地理院には何かとお世話になっております。 以前はWeb上で地理院地図を使わせてもらうための「複製承認申請」で年一回やり取りしてましたし(今は申請不要),最近はGPSログを載せた地図画像を作るために毎回地理院地図にKMLファイルを読み込ませて加工してます。 (→余談42 国土地理院の地図にGPSログを表示) Web上の地図としては,いろいろ便利な「googleマップ」,見やすい「Mapion」,詳細な「いつもNAVI」,そして多彩な「地理院地図」の4つを使い分けしてます。 過去の地図を見たいときには地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」がありますが,これで希望する地図(或いは空中写真)にたどり着くのはなかなか面倒です。 で,沼津工業高等専門学校が作ってくれた「ウェブで過去の地形図や空中写真を見る」を使わせてもらいます。 これは右画のように明治から現在に至る地理院地図や空中写真がクリックで簡単に選択出来て大変ありがたいものです。 →余談30 Googleマップを使って国土地理院の(過去の)地図を見る ただ,古い地図となるとなかなか希望する地域の求めるサイズ(縮尺)のものがありません。全国版の詳細な地図が国立国会図書館に行けばあるようですが,場所が場所だけに手続きがなかなかメンドウなようです。 |
そこで,2016頃から知られるようになった米スタンフォード大が公開している日本全国をほぼ網羅した「五万分一地形圖」を調べてみる。
この地図は、第二次大戦後に進駐軍が接収したもので,大日本帝國陸地測量部が明治後期の測量地図をもとに修正・発行したものらしい。 全国の膨大なデータを誰でも見られる形で無料公開というのが,なんともアメリカの有名大学らしい太っ腹ぶり。 ここ「和犬を相棒に里山を歩く」でもすでに No172 長江城址 の中で,古い街道を確認するのに使わせてもらいました。 「五万分一地形圖」のリンクへ飛ぶと右図のような日本地図が表示されます。 希望する地点をクリックして開いた窓の右下にある「More info」へ行けば「1/50000地図」が表示されます。 さらに,出てきた地図のアドレス欄(左画)に表示される日本語翻訳をチェックすれば,地図の付属データが日本語で読めるという至れり尽くせりの有難さ。 ただし,私のPC環境だと何故か ChromeやEdgeでは見られるのに常用する Firefox だと地図が出ない。 |
さてこのスタンフォード大学の地図で,今話題のNHK大河ドラマ「どうする家康」で,桶狭間の戦い後に大樹寺へと逃れた家康の矢作川渡河地点を探します。 現在のgoogleマップには「鹿ヶ松(三鹿の渡し跡)」(岡崎市北野町)と「徳川家康渡船之所」(豊田市配津町)の二ヶ所が載っていますが,大樹寺への距離を考えると「鹿ヶ松」の方が有力です。 昭和七年五月発行の1/50000地形図「岡崎」の北部,北野〜大門付近を拡大したのが左の画像です。(明治23年測図,大正7年頃修正らしい) この地図上に矢作川左岸(東岸)の大門から川を渡って北野に延びる点線があります。(0.8と数字のある付近) これが昔からの渡河地と思われます。 家康(当時はまだ松平元康)が増水した川を渡れず困っていると,南の長瀬八幡宮の森から三頭の鹿が現れて浅瀬を大門へと渡って行き,それを見て家康一行は矢作川を渡り大樹寺にたどり着いたということです。 鹿は「白鹿」だったという説,三頭の鹿に乗って渡河したという説もあるらしい。 そして,後の世にその鹿の渡った岸に松を植え「鹿ヶ松」と呼ばれるようになったと言います・・・地元小学生が聞いた昔話。 ☆徳川記念財団 第6回「徳川家康公作文コンクール」優秀賞作品より抜粋。(右は今の鹿ヶ松) また対岸の大門にある八劒神社の西端には,足利尊氏石宝塔とともに,ここが昔からの渡河地点であったという案内板が建っています。 |
それでは,日本の地理院地図ではどうなっているか? 前述の沼津工業高校の便利なサイトから,なるべく古い地図を調べてみると,実はこちらにも手掛かりはありました。 旧版地図 [明治後期] (2万分1)で大門〜北野付近を見るとスタンフォード大のものと同様の渡河地(の痕跡)が見られます。 こちらはその南に「鹿松」という地名まで載っています。(右画像の緑枠) (埼玉大学教育学部の「今昔マップ」でも閲覧できます:2023.3.11記) この「鹿松」のさらに南,森越という地名にある神社マークは,現在も長瀬八幡宮として残っています。(立派な公民館や公園を含む大きな神社です) そして境内にある石碑では,もう少し詳しい案内が読めました。 下左:長瀬八幡宮由緒,下右:鹿ヶ松の由来(共に拡大可→微妙に違う) |
追記:その後豊田市配津町の「徳川家康渡船之所」にも行ってみました。(右画像) 矢作川堤防道路直下には石碑が立っており,碑文には ”大高城ヲ脱シ神退ヨリ仁木村ヘ臣下7人 船人配津村半三郎銀銭三文長刀一振書付受ク”とあります。また,この側面には 「慶長五年四月一日成田長兵衛古書ニテ知ル 大樹寺住職佐山学順書」とあり,根拠はあるようです。 なお,慶長五年=1600年・・・関ヶ原合戦の年ですが”成田長兵衛古書”ってのはどうなったんでしょう? |